ブルーオーシャンでしか泳げない

日本とアジアで展開中のブランド「1carat」のCEO。 創業25年のデザイン会社主宰。撮る・歌う・弾く。

Amazonから初の出版のお知らせです。

私が15年撮りためた作品と、この本のために撮り下ろした作品が

アマゾンから写真集として出版・発売されることになりました。

 

 f:id:Pants-Gaku:20180304233530j:plain f:id:Pants-Gaku:20180304233442j:plain

 

その名も『 Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL 』

1carat ダイヤモンドネイルのスタイルブックです。
世界12カ国 & Vol1とVol2、2冊同時発売です。

 

Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.1: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.1: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

 
Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.2: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.2: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

 

 

 

閲覧にはKINDLEアプリをダウンロードしていただく必要がございますが、

 

iPhoneでも iPadでも、もちろんAndroidでも閲覧可能です。
 

どうぞよろしくお願い致します!

ダイヤモンドネイル創世記 -6-

ダイヤモンドネイル創世記 -5- からの続きです。

 

ダイヤモンドネイルマイスター制度を設立し、

我々は一気に活動の範囲を広げ始めた。

 

ネイル VENUS 2007/WINTER号で

「ダイヤモンドネイルマイスターライセンス徹底解剖」

という特集を組まれたことで、

受講の申し込みと問い合わせが殺到したのだ。

 

1caratというブランドは、 " 本物 " を扱うという、

言わば「完全に差別化されたネイルサロン」の代名詞と

位置付けした以上、ここで中途半端なことはできない。

 

ダイヤモンドの色と種類を増やし、

色石と呼ばれる「天然石」や「天然パール」もラインナップした。

 

発売以来、今も品薄が続く「baby heart 」や「baby pearl」をはじめ、

本物志向の方には、天然石のノヴェラシリーズも

人気を博した。 ( 現在、ノヴェラシリーズは廃盤 )

 

f:id:Pants-Gaku:20180228003942j:plain

 

f:id:Pants-Gaku:20180228000139p:plain

 

f:id:Pants-Gaku:20180228105725j:plain

 

 

1caratがデビューして3年。

様々なお言葉をいただいた。

 

「ダイヤモンドなんて爪につけたらもったいない」

「落としたらどうするの?」

「これ本物?」(笑)・・・。


さすがに今ではそう言われることはないが、

早速ダイヤモンドネイルを試される方々は

沢山いらっしゃったのだ。

実はその頃も「不景気不景気」と騒がれてはいたのにも関わらず。

 

ところでこの「不景気」って、

一体何年続いているのだろう。

バブル崩壊が1991年なので、

もうかれこれ 27 年・・・。

とても「失われた20年」どころの騒ぎではない。

 

「この状況」はもうすでに長い。

この状況が標準となっている今、

我々ももう「不景気」という言葉を使う必要はない。

むしろ使わないほうが良いのではないか。と思う。

 

 

その頃、1caratは勢いを増していた。

関西以西を網羅する「西日本統括本部」を設置し、

 ダイヤモンドネイルを教える提携校は、一気に " 58校 " となった。

 

KOBE COLLECTION 2007。神戸周辺と本社の1caratエデュケーターがデモを行った。

 

1caratの活動は、東京から各地方へ広がった。

もう私が全部のイベントに出向くことは不可能なほどだ。

 

KOBE COLLECTIONの会場では、

“ 本物のダイヤ !! すごい綺麗 !! ” との声。

 

繰り返し使えるお得感も相まって、女性なら誰もが憧れる

ダイヤモンドをネイルにできるという発想に、お客様は驚いた。

 

産みの苦しみも味わったが、

果たしてこれは自分が理想としている道なのだろうか。

 

あの頃は、そんなことを考えている余裕もないまま、

走り続けていた。

 

<ダイヤモンドネイル創世記 -7- へつづく>

 

pants-gaku.hatenablog.com

 

 

それじゃあ、また。

 

あの頃、台湾で【那些年,我們一起追了】 - その1 -

台湾に初めて行ったのは、もう20年も前の事だ。

詳しい日は覚えていない。

ただ、誰とどこへ行って、何を食べたかとか

不思議と覚えているものだ。

 

その時は、まさかこんなに台湾と繋がって、

空港のイミグレの人に「パスポート」が2冊要るね、

とか言われるくらい訪れることになるとは

思ってもいなかった。

 

このブログを始めたとき、まさか「台湾のこと」を

書かない、という選択肢はない・・・とは思っていたのだが。

 

はい、" 本日から「台湾のこと」始めました "。

 

私が知っている台湾の情報は、何しろ膨大な量だ。

何をどう整理して、誰に何の目的で

" その魅力 " を伝えようか・・・。

 

実は今、この時点でも分かってはいない。

なので、「 周杰倫  」でも聞きながら筆を進めて

いこうと思う。

 

台湾は「そこに住む人間」がとても魅力的だ。

優しくて、お節介で、純粋で、

恥ずかしがり屋だけど、緊張はしない。

緊張するぅ〜と言ったとて、絶対にしていない。

 

家族の繋がりを凄く大切にしていて、

困っている人を見ると放っておけない。

 

去り際の挨拶が「凄くヘタ」で、

見栄っ張り加減が可愛くて、歩くのが異常に遅い。

 

何事も行き当たりばったりで

「何とかなる」と本気で思っていて、

本当に何とかする。

 

失敗することなんて全く気にしていなくて、

ダメなら「明日から屋台を引けば良い」と

本当に考えていて、

無謀な挑戦の結果、失敗して落ち込んだりする。

で、立ち直りが素晴らしく早い。

 

他人のファッションを凄く褒めるが、

自分は友達の結婚式にサンダルを履いて行ったりする。

 

乾杯の音頭を待たずにゴクゴク飲んで、

それを諭すと、何事も無かったようにグラスを置く。

 

台湾は「まぁまぁ」頑張っていると思っていて、

自分の国より日本が大好きだ。

 

※ 注 : 私の私見に過ぎません。もちろん全員ではありませんよ (笑)

 

そんな人達と友達になれたら、台湾へ行かずに

済むはずがない。

 

人間って、金がなくても飯が食べられて、

気持ちのいい人と時間を過ごせたら

「もうそれでいいんじゃないか」

とジジイになって本気で思うのは、

そう思わせる人達が台湾にいるからだと思う。

 

最近は行かなくても、向こうからどんどん来るので、

実は台湾に行く機会を逸しているというわけだ。

 

日本で疲れて、どうしようもなくなっても、

台湾へ行って友達を作る、という人生はありだ。

 

f:id:Pants-Gaku:20180227010007j:plain

 

まぁ、こんな感じで「ぼちぼち」書こうと思う。

OK嗎 ? ( おっけーま? )

 

それじゃあ、また。

がんがん石の " あさりパスタ "

ご存知の方もいらっしゃるだろうが、私の最大の趣味は「料理」である。

趣味が高じて、2014年に「ダイニングレストラン」までオープンした。

 

今日は、料理に興味を持ち始めた「きっかけ」となった、忘れられない想い出を書こうと思う。

 

遥か昔、私が高校一年生の時だった。

新宿・歌舞伎町の「星座館」の地下のスパゲッティ屋。

それは雀荘を探していた時に見つけた ひょんな事で見つけた。

 

いつも腹が減っている高校生には刺激的すぎる「その芳しき香り」は、店に飛び込む充分な理由になった。

 

その店の名は「がんがん石」。

店内には、この店のオーナーである " 元キックボクシングチャンピオン " の富山勝治の写真が飾ってあった。

 

それほど広くはない店だったが、無垢の木で出来たカウンターが清潔感を醸し出していた。

 

当時のスパゲッティといえば「喫茶店」でたべるナポリタンやミートソースくらいしかなかった時代。

 

そのメニューには「あさり」「たらこ・明太子」「ホワイトソース」や、

おなじみの「ミートソース」。

 

それに「しめじ・しいたけ」「納豆」「野沢菜」「キムチ」などを

" トッピング " することが出来るという意味の文字が並んでいた。

 

制服を着たままの友人たちと " 外食する " という行為は、まさに大人の階段を登っている感覚である。

 

私は「あさり」を選んだ。

初めて食べる「和」のスパゲッティに完全に動揺していた。心が震えるほどに旨い。

「こんな美味いスパゲッティ食ったことねぇな!」

 

生のあさりからしか出ないという出汁は、超濃厚でコクのあるスープだ。

程よいとろみもあった。

 

おろしたてのエダムという名の濃厚なチーズが「あさりの出汁」と絡むと、

得も言われぬ旨味に変わっていく。

私たちは完全にハマった。もうほとんど雀荘の帰りに毎日通ったのだ。

 

がんがん石はカウンターの店なので、コック役とホール役は一人二役である。

「あさり」の汁を多めにかけてくれる " 足立さん " のシフトを何とか聞き出して、

わざわざ足立さんのいる時間に通った。

 

金が無い学生には「トッピング」をオーダーする " 勇気 " はない。

しかし、この世界に飛び込んだ以上、経験しないわけには行かないのだ。

足立さんのオススメは「納豆」だった。

 

「えっ? あさりとチーズと納豆?何か気持ちワリィな」

ほとんどの友達はそう言っていたが、私はその「未踏」の組み合わせに期待した。

「うまい・・・うますぎて何も言えねぇ」 

もちろん初めての味である。

 

「今日死ぬって言われたら最後に何食いたい?」と聞かれたら、

迷わず「がんがん石のあさり納豆」と答えるだろう。

そのくらい旨いのだ。

 

私は久しぶりに家のキッチンに立っていた。

あさりのスパゲッティを作りたかったからだ。

 

試作しては、家の者に無理やり「味見」させたが、

どうしても「あの味」にはならないし、

家の者の顔も決して明るくはない。

 

意を決して、足立さんにこっそり相談してしまった。

何が何でもこの味を自分で作りたかったのだ。

 

「300回・・・通ったらな」

 

クールな足立さんは、どうせ「300回」は通えないだろうと " 高を括って " 放った言葉だったはずだ。

 

そりゃそうだよな。秘伝の味を、そのへんの高校生に教えられるわけがない。

私はその後も何度も「あさりのスパゲッティ」を作ったが、結局あの味にはならなかった。

 

 

ところで、サイモンとガーファンクルSimon & Garfunkelの「スカボロー・フェア」という曲をご存知だろうか。

その歌い出しの部分を替え歌にして、みんなで足繁く通った。

「Are you going to がんがん石〜♫ あさーりしめじ野沢菜〜♫」だったっけな。

 

結果的に私と仲間は、高校卒業までに400回以上は通っただろう。

そしてもうすぐ卒業というある日、足立さんが私を呼んだ。

「望月、ちょっと厨房入ってこいよ」

 

以前、レシピを聞き出そうとしたことを覚えていてくれたのだ。

「このレシピはさ、お前の人生に必ず役に立つから覚えておけよ。卒業おめでとう!」

 

f:id:Pants-Gaku:20180225232959j:plain

 

足立さんに習った「がんがん石」のあさりスパゲッティ。

いまでも私はリクエストがあると、このメニューを自分の店で出す。

 

f:id:Pants-Gaku:20180225232124j:plain

「あさり/しめじ」に、納豆と野沢菜。24ヶ月物のパルメジャーノ・レッジャーノをすりおろし、海苔をかける。ちょっと海苔が・・・フヤケちゃった (笑)

 

35年作り続けたこの " 伝説の味 " 。

想い出はセピア色に褪せているが、味はあの頃のままだ。

 

機会があったら、皆さんにも是非食べていただきたい。

 

【追記】

がんがん石は、渋谷本店と自由が丘にも支店を出していたが、現在は全店ともに閉店している。

高校卒業後、仲間内の熱は大学へ行っても冷めやらず、仲間のうちの何人かはバイトもした (笑) 

 

先日、うちの店のカウンターに座られたお客様が、メニューを見て私に聞いた。


「この伝説のあさりパスタって、あの渋谷のがんがん石の・・・ですか?」

大学の頃、バイトをしていたとのこと。


「もしかして・・・今日、食べられますか?」

その女性のお客様は、懐かったのだろう。

泣きながら食べてくれたので、私も泣けてきた。

 

足立さん、あなたの言った言葉に嘘はなかったよ。

 

それじゃあ、また。

 

 

ダイヤモンドネイル創世記 -5-

ダイヤモンドネイル創世記 -4- からの続きです。

 

香港から帰国すると、特許庁から「ダイヤモンドネイルの特許申請」が認可されていた。

2006年9月 ( 平成18年 )のことだった。

 

f:id:Pants-Gaku:20180225005458j:plain

 

結果的に申し上げると、およそ3年という長い時間と数百万円という膨大な費用がかかった。

何度も何度も拒絶査定を受けたが、絶対に諦めなかったのだ。

 

その特許とは・・・

 

◎ダイヤモンドをガラスの瓶に入れ、取り出す際に紛失しない物理作用的な証明と長年酸などに漬け置きしても実用に問題がないという実験検証による証明。

◎ダイヤモンドを繰り返し使用しても、溶けない・傷つかないといった耐久性の証明。

◎ダイヤモンドを透明溶剤で取り付けた際に、落下しないという物理学的証明。

 

といった内容も網羅された「49項」にも及ぶ膨大な量の内容である。

 

 

ちょうどその頃、にわかに「ソークオフジェル ( Soak Off Gel ) 」なるものが巷を賑わせていた。

ソークオフジェルとは、UVライトで硬化し、溶剤でリムーブ ( ソークオフ ) できる画期的なシステム。南アフリカで作られていたジェルだった。

 

まだ市場性はなかったが、この新しいシステムを利用することは、1caratの「新しい方向性」を示唆していた。

我々はその「CalGel ( カルジェル ) 」と呼ばれたソークオフジェルに期待した。

 

不安定で硬化強度のない「エナメルやグルー」から、このジェルシステムに硬化方法を完全シフトすることを決め、ダイヤモンドやそれを取り巻く環境などを早急に整えたのだ。

 

神様はダイヤモンドネイルに微笑んでいた。

 

日本国特許は取得が本当に難しい。

しかし、取得できればその技術発明が「国」に認められたということになる。

 

ご存知のように「ネイル」という職業は「国家資格」ではない。

それ故に技術やビジネスのあり方は「無法地帯」だ。

だから平気で著作権も特許も関係なく模倣・侵害する。

そのことに苦しむネイリストがいかに多いことか。それは業界にいる者だけが理解できる、ある種の " 闇 " だ。

 

私は「ダイヤモンドネイルの特許」を元にした資格制度の組み立てを急いだ。

それを「ネイリスト」が学び、取得することで、我々のブランドと同じ「誇り」を持つことになると考えたのだ。

 

「これで、何にも屈すること無く、若い女性が夢と誇りを持って仕事に従事できる」。

私はこのことに信念を持っていた。

 

「国家資格」と同等の「国」が認めた " 発明 " だからだ。

 

 そして、その資格制度をダイヤモンドネイル マイスターライセンス ( Diamond Nail Meister License ) と名付けた。

 

f:id:Pants-Gaku:20180224234218j:plain 

マイスターには、サーティフィケートとダイヤモンドの付いたライセンスバッジ ( 別売 ) が与えられる

 

何度も申し上げるが、これを持っていれば「日本国」が正式に認めた " ライセンス " を持っているということになる。そして、本物 < 1carat > を扱うという信頼。

ネイルという事業に従事する以上、これ以上の栄誉はないのだ。

 

f:id:Pants-Gaku:20180225004436j:plain

初期のポスターデザイン

 

f:id:Pants-Gaku:20180225004228j:plain

初期のスカルプチュアを使ったダイヤモンドネイル。このスタイルから卒業した。
 
15世紀から「女性の永遠の憧れ」とされてきたダイヤモンド。
長い年月を経ても、その価値を越えるものは未だにない。
 
言わば、ネイルというサービスの中で、「所有する喜び・増やす楽しみ」をお客様に与えられるのは、“ ダイヤモンドネイル ” 以外にはないのだ。
 
私はこの事実をネイルアートの歴史に刻みたかった。

「このマイスターライセンスを世に広めたい。ネイリストという仕事に誇りを! 」

この気持を持って、またここからの " 新しいスタート " を心から喜んでいた。

 

<ダイヤモンドネイル創世記 -6- へ続く>

 

それじゃあ、また。

 

見切り発車で行こう

何かを開発したり、スタートする時に大切にしていることがある。

それは「見切り発車」で行うこと。

 

十分な議論をせずに決定・実施してしまうことである。 

だからプロジェクトチームはなるべく少人数が良い。

 

私は日本人であるが故に、ついつい完璧を求めてしまう " きらい " があるが、そうなるといくら時間があっても足りない。

そこそこでスタートすれば、早く結果を知ることができるし、周りからの反応も伺い知ることもできる。

それを元に、より良いものに改良していくというわけだ。

 

この「やり方」はアメリカの企業によく見られる手法で、「スピード」が最も大切だと考える合理主義ならではの " 仕事術 " である。

 

私は特にアメリカにかぶれているわけでも無ければ、憧れているわけでもない。

ただ「時間」が惜しいのだ。

だからと言って「適当」に仕事をしているわけではない。
走り出してみないと「結果」がわからないことを思慮しすぎて、商機を逃すことが最も恐いのだ。

 

どんなに使い勝手の良い製品でも、「商機」を逃しては売ることはできない。

 

かつて、パソコンのプロデュースを依頼された事があった。

それは2002年の夏の終わりのことだった。

 

嬉しかったことに、筐体のデザインと設計、アッセンブリーの手配などの生産管理まで総合的に受注したのだ。

 

通常、パソコンの開発は「2年」かかると言われているが、私は3ヶ月で「発売」まで漕ぎ着けることを目標としていた。

 

f:id:Pants-Gaku:20180224020239j:plain

そのデスクトップパソコンの「最大の特徴」は、フロントパネルの半分を占めるアクリルピラー。

 

アクリルの下部に取り付けた3色のLEDによって七色に発色し、

アクリルに刻まれた「UNISEX」の文字が鮮やかに浮かび上がるという

「世界最小インテリアPC」なのだ。

 

ジェフ・ベックというギタリストの、音色を変える「3つのフェイズスイッチ」からインスパイアされた。その3つのLEDスイッチの組み合わせで七色の照明をデスクトップ上で楽しむことができる。

 

それほど大きくない間接照明でも、殺伐としたオフィスの雰囲気がガラリと変わる。

たったこれだけで、働く人々の「仕事に対する生産性と発想力」も劇的に向上するのだ。

 

f:id:Pants-Gaku:20180224021000p:plain

 

松嶋菜々子福山雅治主演のフジテレビ系ドラマ「美女か野獣」( 2003年1月9日〜3月20日 ) の中の「テレビ局内」に配置された、すべてのPCに採用された。

 

ドラマのストーリーの中で「局の停電シーン」があったのだが、この照明だけが点灯していて視聴者からクレームがあったとか無かったとか・・・(笑)

 

アクリルピラーをスチールの筐体に組み込むという「無謀なコンセプト」だったが、アイデアを出したのは " 私 " だ。

 

テレビの放映に間に合わせることはもちろん、秋葉原の各ベアボーンショップから3000台の発注も受けていたので、製造プロセスの見切り発車は " 絶対条件 " となった。

 

時間が惜しいこともあって、開発中はチームのメンバー達が「製品チェック」を夜を徹して行っていた。

 

 

そんなある日、私の携帯が鳴った。

午前1時頃だった。

 

「望月さん、大変です! UNISEXが火を吹いています!」( 笑 )

電源ユニットの不良による、発熱からの発火だった。

 

至急、台湾の部材メーカーに確認を急いだのだが、結果的に別の電源ユニットにしなければ逆に間に合わない。

骨子の設計から変更を余儀なくされた。もう変更の嵐だ。

 

そんな紆余曲折はあったが、収録の日も迎えることができ、無事店頭にも並んだ。

全数の完売をもってプロジェクトは解散となったが、その後「アキバ不況」と言われる歴史的な事件が起こった。

 

 

2003年3月。ベアボーンショップは軒並み倒産した。

 


T-ZONEAKIBA PLACE、ベアボーン担当部長からの電話が鳴った。

「望月さん、すみません。うち閉店になります・・・」

 

その時、T-ZONEの新しいPCのプロデュースを依頼され、設計を行っていた最中。

部長は涙声だった。私も泣いた。

 

ascii.jp

 

もし「見切り発車」的な手法で設計・製造していなかったら・・・。

UNISEXというインテリアPCは世に出ていなかった。

今になって言えることだが、あの2003年が最後の「商機」だったのだ。

 

秋葉原はもう、かつての「アキバ」ではない。

時代が移り変わるのも仕方のないこと。

 

「商機」ってやつは、予測しようと俯瞰で見ようと誰もわからない。

だからこその「見切り発車」なのだ。

 

 それじゃあ、また。

 

 

 

 

 

緑の麻薬にはまっていた頃

「今始めないと、先に上手くなっちゃうよ。」

従兄弟のコウちゃんの一言で、21歳の時に渋々始めた。

 

私は「ゴルフ」がとても嫌いだった。

幼少の頃、父親が自分と遊んでくれない「理由」がそれだと思っていたからだ。

 

父親は、夜になると裏通りで「タバコのフィルター」を路面に立て、

それをティーがわりにして素振りに勤しんでいた。

昭和40年代のその光景は、セピア色に霞んで思い出される。

 

ゴルフばかりの人生だった。

それが子供心に何かネガティブなイメージを持ってしまっていたのだ。

 

その親父に言われた遺言のような一言。

「5月と6月は借金してでもやれ」。

そのくらい、この季節のゴルフは気持ち良い。

 

「緑の麻薬だ」

親父はこうも言っていた。

その季節にコースに出かけると、親父の声が聞こえてくる。

 

ゴルフをしなくなって、1年半が経とうとしている。

太平洋アソシエイツのメンバーになってからは、

年間100ラウンドが当たり前だった。

 

お陰で目指していたシングルにもなれた。

100万分の1の確立といわれる奇跡「アルバトロス」も取れた。

毎週ゴルフしてても2000年くらいかかるとか・・・。

 

でも「ゴルフ以外にやれてないこと」が沢山あるから、今は " おやすみ " してるだけ。

また「緑の麻薬」が恋しくなったら、コースに戻るつもりです。

 

f:id:Pants-Gaku:20180222003054j:plain

ちょっと デブ (笑) カッコイイ!

 

f:id:Pants-Gaku:20180222003042j:plain

真ん中に描かれている女性・・・ん? どっかで見たことあるな (笑)  

 

それじゃあ、また。