ブルーオーシャンでしか泳げない

日本とアジアで展開中のブランド「1carat」のCEO。 創業25年のデザイン会社主宰。撮る・歌う・弾く。

ありがとう

私には幼少期から「尊敬」している人物がいる。

 

体よく「両親だ」と言いたいところだが、実はそうではない。

その人は「おじちゃん」。

私の母の弟だ。

 

父方の兄弟や配偶者、親戚などにも「おじちゃん」と呼ばれる人は何人もいるのだが、母の弟は自分にとって「ヒーロー」だった。

 

幼い頃っていうのは、どうしても「同じ年のいとこ」が自分の直近となるので、「◯◯ちゃんのお父さん」という呼び方になる。

 

そう長い間呼んできたのだが、この歳になって「◯◯ちゃんのお父さん」って呼び方もどうかと思うので、最近になってからは、下の名前に「おじちゃん」をつけて呼ぶことにしている。

 

まだ日本に「モラル」とか「マナー」とか、そういう「他人に気を使いましょう」的な風潮がなかった時代。

私がまだ小学校2、3年生の頃の話だ。

 

私達は、座席が程よく埋まっている電車に乗っていた。

どこに移動していたかは忘れてしまったのだが、ひとりの「おばあさん」が車両を移動しながらゆっくりと歩いていた。

別段、変わった光景ではないし、もし今の時代だったとしても誰もそれを気にも留めないような状況だった。

 

おじちゃんは、すくっと席を立った。

次の駅はまだ先のはずだし、電車はまだ普通の速度で走っている。

どこにいくんだろう。と、みんな一瞬思ったはずだ。

 

すると、おじちゃんは「通り過ぎたおばあさん」のところへ行き、呼び止めた。

おばあさんの手を引きながら戻ってくると、「どうぞお座りください」と先程まで自分が座っていた席へ丁寧に導いた。

 

おばあさんは「原ひさ子」さんのような笑顔で「ありがとう」と言うと、ニコニコと座った。

おじちゃんもうれしそうに笑っていた。

 

しかし、私は妙に恥ずかしかった。

こんな優しいおじちゃんは立っているのに、「ガキ」の自分は堂々と座っている。

この状況に違和感を覚えていたのだ。

しかし何も言えず、とにかく時の過ぎるのをじっと耐えた。

 

半世紀以上も生きてきて、未だにこの辛かった事は忘れられない。

 

自分は長い間、「人に親切をしたり」「人に感謝を伝えたり」、自分の内面を素直に表現することが恥ずかしかった。

恥ずかしいから出来ない。

なぜ、何が、恥ずかしいのかもわからない。

 

思い返せば、おじちゃんは、ずっと人に親切をしていた。

そして、そうさせてもらったことに「ありがとう」と言っていた。

先日のじいちゃんの七回忌でも「お墓」にありがとうと言っていた。

集まった親族にもひとりひとり「ありがとう」と言っていた。

 

だからすごく尊敬していたのだ。

 

 

先日、自分が今後「生きていくテーマ」について、話す機会があった。

ワークフローとかそんなことではなく、今後の自分の人生にとって「ひとつ」だけ " キーワード " を出すという機会があったのだ。

 

そこで自分が出した答えは「ありがとう」だった。

 

それは自分が長い間口に出してきた「ありがとう」は、本当の「ありがとう」ではないような気がしていたからだ。

ただの上っ面のありがとうだ。

センキュー、みたいな。

 

今までの自分に、まったく足りていない「何かに、誰かに感謝する気持ち」。

ジジイになってしまった今、とても「おじちゃん」の域には追いつかないかもしれないが、心の底から人や物に「感謝」ができる人間になりたい。

 

おじちゃんは、立正佼成会で教会長を3教会も勤め上げて、それを引退した。

現在は、100名近い「傾聴ボランティア団体」の代表をしている。

 

まだ私のヒーローは近くで生きている。

今、その事に深く感謝したいと思う。

 

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それじゃあ、また。

焦がしと寝かしが重要

ボロネーズと言われ始めたのはいつからだろうか。

私は幼少の頃からの呼び方、「ミートソース」とついつい呼んでしまう。

自分の店でカッコつけちゃって、イイ感じで言おうものなら、「こちら、みーと・・・ぼ、ボロニェーゼでございます」とカミカミだ。

 

前記事に登場した " がんがん石 " でも、やはり「ミートソース」と書いてあった。

ちなみに「ボロネーズ」はフランス語で、イタリア語では「ボロネーゼ」。

そのまんま " ミート ( 肉 ) のソース " のことを意味しているのだ。

 

だが、今日はミートソースでいこう。

 

クックパッドとかに書いてあるからいいんじゃない?」

という声も聞こえてくるが、私のソレはちょいと手間がかかる。

だが、その分グッと美味しくなるので興味のある方は、作ってみて欲しい。

 

私の料理は「分量」が適当だ。しかし大体でも、愛情と " 味覚の想像 " で意外と旨くなる。

 

もちろん初めての料理で「美味しく」作ろうなんてのは愚の骨頂なので、何度かの失敗は覚悟して欲しい。

 

男性は往々にして「量る」のが苦手。

ご多分に漏れず、私もその類だ。

たまにパンも焼くが、小麦粉とかを量るのがすごく面倒。

まぁ、美味しい物を食べるには、それなりの「通過儀礼」っていうのは必要かとは思うが。

 

 

まず旨いミートソースは3つの要素を用意することを考える。

 

◯トマトソース

◯野菜

◯ひき肉

 

この3つだ。

これを別々に作って最後に合わせたほうが旨いのだ。

 

以下は《3-4名分》の分量で記載することとする。

 

 

◯トマトソース

市販のトマト缶を使うのだが、もし拘る場合は「ダッテリーニ」という品種のトマト缶を使ってみて欲しい。高いだけあって、1缶100円程度のものとは確実に味が変わる。

 

モンテベッロ ダッテリーニトマト 400g

モンテベッロ ダッテリーニトマト 400g

 

こいつを手で潰す。

にんにくを3片くらい擦り下ろしたものを入れ、そして1缶分同量のミネラルウォーター (硬水)を入れ、水分が少なくなるまで煮詰めておく。
但し、カピカピになるまでやっちゃだめよ。

ま、無ければ水道水でも。

 

コントレックス 1.5L×12本 [並行輸入品]

コントレックス 1.5L×12本 [並行輸入品]

 

 

 

◯野菜

玉ねぎは2タマ、にんにく5-6片、人参1本、セロリ1本(茎)、をフードプロセッサーでみじん切りにして、オリーブオイルと1片のバターで、15分程度炒める。

最後に砂糖を大さじ2程度入れて、手前で焦がしながら混ぜていく。

(私は波照間の粉末黒糖を使う。味が抜群に良い。) 

波照間黒砂糖粉末250g お買い得6袋セット(香り・味の違いビックリ)

波照間黒砂糖粉末250g お買い得6袋セット(香り・味の違いビックリ)

 

 

◯ひき肉

牛とか合い挽きは高いから、豚ひきで良い。むしろ豚のほうが美味かったりする。

2人前で300gくらい ( スーパーで売ってる1パック分 ) 。

 

少量のオリーブオイルをひき、パックの形のままフライパンに投入。

ブラックペッパーを軽く振りつつ。

 

だが・・・ここで「混ぜ混ぜ」しない!

焦げ目が付くまでそのままが鉄則だ。

この焦がしが旨味を引き出すのだ。

 

中強火で、時間にして5分放置する。

ちょっと覗いて焦げ目が付いていたら、ひっくり返す。

同じく5分放置。

ここで初めて「混ぜ混ぜ」が許されるのだ。

 

肉の塊も大きさはマチマチでOKだ。

肉の粒を一つ一つバラバラにする必要はない。

デカイのがあったり、小さい片があったり。

この方が、むしろ食べごたえがあるソースに仕上がる。

 

 

それぞれに仕上がった【◯トマトソース◯野菜◯ひき肉】。

この3つを、やっと1つに合わせる。

どんな鍋でも良いので、入れてゆっくり混ぜ合わせる。

 

塩分はこの時点で味見をしながら、粗塩を少しづつ投入する。

「ちょっと薄いかな」くらいでOK。

 

弱火で煮込みながら、水分が少なくなったら火を止める。 

是非、ここで一日冷蔵庫で寝かしたい。

カレーの要領と同じだ。

 

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いよいよパスタの登場だ。

適当に塩をいれた「硬水」(これも水道水で可) で、パスタの推奨茹で時間より、2分程度短めに茹でる。( 8分と書いてあったら6分で )

 

その間フライパンを用意し、ミートーソースとオリーブオイル (大さじ6杯程度) 入れる。オリーブオイルとミートソースはなじませるのだが、ここで茹で汁を大さじ3杯くらい入れて「乳化 ※水分と油が混ざり合った状態」させておく。

 

この「乳化」。

とても重要なので是非。

 

一応塩分をチェックして、好みに調整する。(少し濃い目の味付けがオススメ)

 

パスタが茹で上がったら、フライパンにダイレクトイン。

湯切りは、特に神経質になる必要はなし。

強火でソースと20秒程度、煽りながら炒めたら完成です。

 

 

「望月。世界で一番美味しい組み合わせって、知ってるか?」

がんがん石の「足立さん」が突然言った。

もちろん高校生である私が、知るわけがない。

 

「ミートソースと納豆だよ。」

ひー。まじか!

「これに野沢菜があったら、もう最強だ。」

 

足立さん。
実はあなたは今頃イタリアにいて、イタリア人たちに「ボーノ」とか言わせちゃってるんじゃないんですか?

 

それじゃあ、また。

 

 

 

 

 

ダイヤモンドネイル創世記 -7-

ダイヤモンドネイル創世記 -6- からの続きです。

 

 「いま、信濃町の駅にいます」

香港の美容雑誌を見たという " マレーシア " のネイリストから一本の電話があった。

 

あまりに突然ではあったが、もちろん大歓迎だ。

彼女の名前はMs. Kim。

ダイヤモンドネイルの技術取得を希望したのは、日本からだけではなかったのだ。

 

彼女は英語を話していた。

当たり前だが「マレー語」とかだったら、教えられなかった。

彼女の滞在期間は短く限られていたが、エデュケーターを希望していたので全てのノウハウを3日間に詰め込んだのだ。

 

マレーシアでもその当時「ソークオフジェル」は出回っていない。

ネイルアートの幅にも限界を感じていた彼女は「顧客からのリクエストが何か変わった」と感じていたところだった。

 

これは「マニキュアサービス」の終焉を意味することだった。

 

エデュケーションは相当な短期集中だったが、勤勉で積極的なMs. Kimは、無事エデュケーターの検定に合格して帰国した。

 

無口でシャイではあったが、瞳の奥の輝きに「情熱」を感じたのだ。

 

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ほどなくして、Ms. Kimから熱いメッセージとともに写真が届いた。

 

1caratのプロモーションを現地ですでに行ったし、反響もあったという。

あまりのスピードに驚いたが、1caratのアジア進出の期待は更に高まった。

 

Kimさんならやれるかもしれない。

 

仕事が早いのは最高だ。

あーだこーだ、と考え、1通のメールにさえ返事を寄越さないヤツもいる。 

生きてるうちにどんどん前に進まないと絶対後悔する。

保身や調整より挑戦だろ。と思うのだが。

 

やはり、仕事は「凄く忙しくて、意思決定が早い人」とするに限る。

それは、どちらに転ぼうがいつも痛快だ。

 

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未踏の地、マレーシアは「暑い」のだろう。

薄手のファッションに、褐色の肌が汗ばんでいるようにも見える。

 

 

2008年に入り、私の「アジアへの情熱」は増すばかり。

私は勢い余って「上海支社」を設立した。

本当に勢いが余り過ぎている。

 

しかし、これを書いている「今」でも、それを行き過ぎているとは感じない。

むしろ「もっと濃口」でやれと思う。

だってブルーオーシャンは、ともするとレッドオーシャンにだって変わることがあるからだ。

 

見切り発車もそのための手法だし、いつもそうしてきた。

参考記事はこちら↓

  

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「上海の朝に成功を祈る的な1枚」 by myself

 

中国大陸へはデザインの仕事で何度も出かけた。

その時感じた「脅威」は、コストが安い生産拠点としての中国ではなく、マーケットとしての中国だったのだ。

 

「この勢いが止まらないうちに中国市場に食い込みたい」

そう気持ちが高ぶっていた。

 

「臆する」なんて言葉は私の辞書に載っていない。

昔からナンパの時も「切り込み隊長」だ。

上海の有名サロンに片っ端から営業した。

 

中国からの営業は「凄く強い」のは想像がつくだろう。

しかし、営業される側となった中国は、意外と「引け腰」でいつもがっかりする。

 

しかし、今回はそのうちの8店舗が「ダイヤモンドネイル」の導入を検討するということで、急遽プロダクツセミナーとマイスターのレクチャーに出かけることになった。

 

決まるとなると「早い」のも中国。

さぁ来い、今来い、じゃあ明日は?

となる。

 

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まずは初日。上海だけでなく北京にも展開している「I-NAIL」。

このグループ企業はネイルだけでなく、ヘア・エステ・スパと総合的に展開していた。

 

元モデルの社長らしく、自社のイメージ広告での露出が多い。

というかほとんどのモデルは彼女だった。

 

私も白馬にまたがってプロモーションしたいぞ。

絶対カッコイイに違いない。

 

インターナショナルな上海とは言え、当然「中国語」を喋る人間が必要だった。

エデュケーターになったばかりのMs. Kimを采配するのは不安が残ったが、背に腹は変えられない。

技術は本社の日向(ひなた)に、スピーカーはMs.Kimに委ねることにしたのだ。

Ms. Kimも、上海は初めてだと言う。

彼女の気合も相当なものだった。

 

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ネイル技術の通訳は難しい。

英語圏からの用語が多く、中国語への通訳はベテランでも断られるケースがある。

時間が掛けられる翻訳でも難しいのだから、同時通訳なんて、もう「神の領域」だ。

 

Ms. Kimは「中国系マレーシア人」なので、母国語は中国語。

その講義から溢れ出すエネルギーには驚いた。凄い迫力なのだ。

1caratの一言一句が中国語に置き換えられることに感動したこと。

それはそれは、今でも鮮明に覚えている。 

 

私も自ら「マーケティング理論」をぶちかました。

面白かったのは、私が期待する答えにほとんどの参加者が賛同したことだった。

 

上海の現場で働く人達に、私の論理が通じた。

これは大きな自信にはなったが、その理論どおりに「実行するしない」は、また別の問題だった。

 

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中心部にあるデパートにテナントで入っているサロンと、閑静な住宅街にあるサロン2店舗を見学したが、ソークオフジェル以外、日本との違いは見られなかった。

 

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この建物が、講義を行った「I-NAIL」の本社だ。さすが白馬にまたがる社長だけあって、外観もヨーロッパ調だ。中には様々な教室があり、教育にもかなり力をいれていた。

 

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そしてリッツカールトンにある「FIORI」でのマイスターレクチャーへ。

ヘビースケジュールだったが、Ms.Kimの滞在期間も限られていたので馬車馬のように動きまくった。

 

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FIORIの2店舗目はデパート内にあるサロン。

 

アジアはいつだって「突然」何かが起こる。

 

「取材」と称してダイヤモンドネイルの実体験を希望したのだ。

えー聞いてないぜ。

3ヶ月後に発売される「Oggi CHINA」に掲載したいらしく、美容ライターの方に施術した。

 

こういうところは日本の風習とはやはり違う。

今日は今日の風が吹くし、明日の予定は明日決まったりする。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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目覚しい発展を遂げる中国。

当時はまだ「市場」としての中国に気づき始めたばかりだった。

 

特に上海は世界中から注目されていたし、今後の展開が本当に楽しみだった。

本当に、楽しみだったのに・・・。


しかし私の心は『今、アジアへ !! 』と募るばかり。


最終目的地「USA」への本格進出まで、1caratと私の挑戦は

まだまだ続くのだ。 

  

 

<ダイヤモンドネイル創世記 -8- へ つづく>

それじゃあ、また。

 

Amazonから初の出版のお知らせです。

私が15年撮りためた作品と、この本のために撮り下ろした作品が

アマゾンから写真集として出版・発売されることになりました。

 

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その名も『 Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL 』

1carat ダイヤモンドネイルのスタイルブックです。
世界12カ国 & Vol1とVol2、2冊同時発売です。

 

Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.1: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.1: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

 
Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.2: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

Genuine DIAMOND NAILS THE MOST BEAUTIFUL Vol.2: 地球上で最も美しいダイヤモンドネイル

 

 

 

閲覧にはKINDLEアプリをダウンロードしていただく必要がございますが、

 

iPhoneでも iPadでも、もちろんAndroidでも閲覧可能です。
 

どうぞよろしくお願い致します!

ダイヤモンドネイル創世記 -6-

ダイヤモンドネイル創世記 -5- からの続きです。

 

ダイヤモンドネイルマイスター制度を設立し、

我々は一気に活動の範囲を広げ始めた。

 

ネイル VENUS 2007/WINTER号で

「ダイヤモンドネイルマイスターライセンス徹底解剖」

という特集を組まれたことで、

受講の申し込みと問い合わせが殺到したのだ。

 

1caratというブランドは、 " 本物 " を扱うという、

言わば「完全に差別化されたネイルサロン」の代名詞と

位置付けした以上、ここで中途半端なことはできない。

 

ダイヤモンドの色と種類を増やし、

色石と呼ばれる「天然石」や「天然パール」もラインナップした。

 

発売以来、今も品薄が続く「baby heart 」や「baby pearl」をはじめ、

本物志向の方には、天然石のノヴェラシリーズも

人気を博した。 ( 現在、ノヴェラシリーズは廃盤 )

 

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1caratがデビューして3年。

様々なお言葉をいただいた。

 

「ダイヤモンドなんて爪につけたらもったいない」

「落としたらどうするの?」

「これ本物?」(笑)・・・。


さすがに今ではそう言われることはないが、

早速ダイヤモンドネイルを試される方々は

沢山いらっしゃったのだ。

実はその頃も「不景気不景気」と騒がれてはいたのにも関わらず。

 

ところでこの「不景気」って、

一体何年続いているのだろう。

バブル崩壊が1991年なので、

もうかれこれ 27 年・・・。

とても「失われた20年」どころの騒ぎではない。

 

「この状況」はもうすでに長い。

この状況が標準となっている今、

我々ももう「不景気」という言葉を使う必要はない。

むしろ使わないほうが良いのではないか。と思う。

 

 

その頃、1caratは勢いを増していた。

関西以西を網羅する「西日本統括本部」を設置し、

 ダイヤモンドネイルを教える提携校は、一気に " 58校 " となった。

 

KOBE COLLECTION 2007。神戸周辺と本社の1caratエデュケーターがデモを行った。

 

1caratの活動は、東京から各地方へ広がった。

もう私が全部のイベントに出向くことは不可能なほどだ。

 

KOBE COLLECTIONの会場では、

“ 本物のダイヤ !! すごい綺麗 !! ” との声。

 

繰り返し使えるお得感も相まって、女性なら誰もが憧れる

ダイヤモンドをネイルにできるという発想に、お客様は驚いた。

 

産みの苦しみも味わったが、

果たしてこれは自分が理想としている道なのだろうか。

 

あの頃は、そんなことを考えている余裕もないまま、

走り続けていた。

 

<ダイヤモンドネイル創世記 -7- へつづく>

 

pants-gaku.hatenablog.com

 

 

それじゃあ、また。

 

あの頃、台湾で【那些年,我們一起追了】 - その1 -

台湾に初めて行ったのは、もう20年も前の事だ。

詳しい日は覚えていない。

ただ、誰とどこへ行って、何を食べたかとか

不思議と覚えているものだ。

 

その時は、まさかこんなに台湾と繋がって、

空港のイミグレの人に「パスポート」が2冊要るね、

とか言われるくらい訪れることになるとは

思ってもいなかった。

 

このブログを始めたとき、まさか「台湾のこと」を

書かない、という選択肢はない・・・とは思っていたのだが。

 

はい、" 本日から「台湾のこと」始めました "。

 

私が知っている台湾の情報は、何しろ膨大な量だ。

何をどう整理して、誰に何の目的で

" その魅力 " を伝えようか・・・。

 

実は今、この時点でも分かってはいない。

なので、「 周杰倫  」でも聞きながら筆を進めて

いこうと思う。

 

台湾は「そこに住む人間」がとても魅力的だ。

優しくて、お節介で、純粋で、

恥ずかしがり屋だけど、緊張はしない。

緊張するぅ〜と言ったとて、絶対にしていない。

 

家族の繋がりを凄く大切にしていて、

困っている人を見ると放っておけない。

 

去り際の挨拶が「凄くヘタ」で、

見栄っ張り加減が可愛くて、歩くのが異常に遅い。

 

何事も行き当たりばったりで

「何とかなる」と本気で思っていて、

本当に何とかする。

 

失敗することなんて全く気にしていなくて、

ダメなら「明日から屋台を引けば良い」と

本当に考えていて、

無謀な挑戦の結果、失敗して落ち込んだりする。

で、立ち直りが素晴らしく早い。

 

他人のファッションを凄く褒めるが、

自分は友達の結婚式にサンダルを履いて行ったりする。

 

乾杯の音頭を待たずにゴクゴク飲んで、

それを諭すと、何事も無かったようにグラスを置く。

 

台湾は「まぁまぁ」頑張っていると思っていて、

自分の国より日本が大好きだ。

 

※ 注 : 私の私見に過ぎません。もちろん全員ではありませんよ (笑)

 

そんな人達と友達になれたら、台湾へ行かずに

済むはずがない。

 

人間って、金がなくても飯が食べられて、

気持ちのいい人と時間を過ごせたら

「もうそれでいいんじゃないか」

とジジイになって本気で思うのは、

そう思わせる人達が台湾にいるからだと思う。

 

最近は行かなくても、向こうからどんどん来るので、

実は台湾に行く機会を逸しているというわけだ。

 

日本で疲れて、どうしようもなくなっても、

台湾へ行って友達を作る、という人生はありだ。

 

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まぁ、こんな感じで「ぼちぼち」書こうと思う。

OK嗎 ? ( おっけーま? )

 

それじゃあ、また。

がんがん石の " あさりパスタ "

ご存知の方もいらっしゃるだろうが、私の最大の趣味は「料理」である。

趣味が高じて、2014年に「ダイニングレストラン」までオープンした。

 

今日は、料理に興味を持ち始めた「きっかけ」となった、忘れられない想い出を書こうと思う。

 

遥か昔、私が高校一年生の時だった。

新宿・歌舞伎町の「星座館」の地下のスパゲッティ屋。

それは雀荘を探していた時に見つけた ひょんな事で見つけた。

 

いつも腹が減っている高校生には刺激的すぎる「その芳しき香り」は、店に飛び込む充分な理由になった。

 

その店の名は「がんがん石」。

店内には、この店のオーナーである " 元キックボクシングチャンピオン " の富山勝治の写真が飾ってあった。

 

それほど広くはない店だったが、無垢の木で出来たカウンターが清潔感を醸し出していた。

 

当時のスパゲッティといえば「喫茶店」でたべるナポリタンやミートソースくらいしかなかった時代。

 

そのメニューには「あさり」「たらこ・明太子」「ホワイトソース」や、

おなじみの「ミートソース」。

 

それに「しめじ・しいたけ」「納豆」「野沢菜」「キムチ」などを

" トッピング " することが出来るという意味の文字が並んでいた。

 

制服を着たままの友人たちと " 外食する " という行為は、まさに大人の階段を登っている感覚である。

 

私は「あさり」を選んだ。

初めて食べる「和」のスパゲッティに完全に動揺していた。心が震えるほどに旨い。

「こんな美味いスパゲッティ食ったことねぇな!」

 

生のあさりからしか出ないという出汁は、超濃厚でコクのあるスープだ。

程よいとろみもあった。

 

おろしたてのエダムという名の濃厚なチーズが「あさりの出汁」と絡むと、

得も言われぬ旨味に変わっていく。

私たちは完全にハマった。もうほとんど雀荘の帰りに毎日通ったのだ。

 

がんがん石はカウンターの店なので、コック役とホール役は一人二役である。

「あさり」の汁を多めにかけてくれる " 足立さん " のシフトを何とか聞き出して、

わざわざ足立さんのいる時間に通った。

 

金が無い学生には「トッピング」をオーダーする " 勇気 " はない。

しかし、この世界に飛び込んだ以上、経験しないわけには行かないのだ。

足立さんのオススメは「納豆」だった。

 

「えっ? あさりとチーズと納豆?何か気持ちワリィな」

ほとんどの友達はそう言っていたが、私はその「未踏」の組み合わせに期待した。

「うまい・・・うますぎて何も言えねぇ」 

もちろん初めての味である。

 

「今日死ぬって言われたら最後に何食いたい?」と聞かれたら、

迷わず「がんがん石のあさり納豆」と答えるだろう。

そのくらい旨いのだ。

 

私は久しぶりに家のキッチンに立っていた。

あさりのスパゲッティを作りたかったからだ。

 

試作しては、家の者に無理やり「味見」させたが、

どうしても「あの味」にはならないし、

家の者の顔も決して明るくはない。

 

意を決して、足立さんにこっそり相談してしまった。

何が何でもこの味を自分で作りたかったのだ。

 

「300回・・・通ったらな」

 

クールな足立さんは、どうせ「300回」は通えないだろうと " 高を括って " 放った言葉だったはずだ。

 

そりゃそうだよな。秘伝の味を、そのへんの高校生に教えられるわけがない。

私はその後も何度も「あさりのスパゲッティ」を作ったが、結局あの味にはならなかった。

 

 

ところで、サイモンとガーファンクルSimon & Garfunkelの「スカボロー・フェア」という曲をご存知だろうか。

その歌い出しの部分を替え歌にして、みんなで足繁く通った。

「Are you going to がんがん石〜♫ あさーりしめじ野沢菜〜♫」だったっけな。

 

結果的に私と仲間は、高校卒業までに400回以上は通っただろう。

そしてもうすぐ卒業というある日、足立さんが私を呼んだ。

「望月、ちょっと厨房入ってこいよ」

 

以前、レシピを聞き出そうとしたことを覚えていてくれたのだ。

「このレシピはさ、お前の人生に必ず役に立つから覚えておけよ。卒業おめでとう!」

 

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足立さんに習った「がんがん石」のあさりスパゲッティ。

いまでも私はリクエストがあると、このメニューを自分の店で出す。

 

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「あさり/しめじ」に、納豆と野沢菜。24ヶ月物のパルメジャーノ・レッジャーノをすりおろし、海苔をかける。ちょっと海苔が・・・フヤケちゃった (笑)

 

35年作り続けたこの " 伝説の味 " 。

想い出はセピア色に褪せているが、味はあの頃のままだ。

 

機会があったら、皆さんにも是非食べていただきたい。

 

【追記】

がんがん石は、渋谷本店と自由が丘にも支店を出していたが、現在は全店ともに閉店している。

高校卒業後、仲間内の熱は大学へ行っても冷めやらず、仲間のうちの何人かはバイトもした (笑) 

 

先日、うちの店のカウンターに座られたお客様が、メニューを見て私に聞いた。


「この伝説のあさりパスタって、あの渋谷のがんがん石の・・・ですか?」

大学の頃、バイトをしていたとのこと。


「もしかして・・・今日、食べられますか?」

その女性のお客様は、懐かったのだろう。

泣きながら食べてくれたので、私も泣けてきた。

 

足立さん、あなたの言った言葉に嘘はなかったよ。

 

それじゃあ、また。