ダイヤモンドネイル創世記 -6- からの続きです。
「いま、信濃町の駅にいます」
香港の美容雑誌を見たという " マレーシア " のネイリストから一本の電話があった。
あまりに突然ではあったが、もちろん大歓迎だ。
彼女の名前はMs. Kim。
ダイヤモンドネイルの技術取得を希望したのは、日本からだけではなかったのだ。
彼女は英語を話していた。
当たり前だが「マレー語」とかだったら、教えられなかった。
彼女の滞在期間は短く限られていたが、エデュケーターを希望していたので全てのノウハウを3日間に詰め込んだのだ。
マレーシアでもその当時「ソークオフジェル」は出回っていない。
ネイルアートの幅にも限界を感じていた彼女は「顧客からのリクエストが何か変わった」と感じていたところだった。
これは「マニキュアサービス」の終焉を意味することだった。
エデュケーションは相当な短期集中だったが、勤勉で積極的なMs. Kimは、無事エデュケーターの検定に合格して帰国した。
無口でシャイではあったが、瞳の奥の輝きに「情熱」を感じたのだ。
ほどなくして、Ms. Kimから熱いメッセージとともに写真が届いた。
1caratのプロモーションを現地ですでに行ったし、反響もあったという。
あまりのスピードに驚いたが、1caratのアジア進出の期待は更に高まった。
Kimさんならやれるかもしれない。
仕事が早いのは最高だ。
あーだこーだ、と考え、1通のメールにさえ返事を寄越さないヤツもいる。
生きてるうちにどんどん前に進まないと絶対後悔する。
保身や調整より挑戦だろ。と思うのだが。
やはり、仕事は「凄く忙しくて、意思決定が早い人」とするに限る。
それは、どちらに転ぼうがいつも痛快だ。
未踏の地、マレーシアは「暑い」のだろう。
薄手のファッションに、褐色の肌が汗ばんでいるようにも見える。
2008年に入り、私の「アジアへの情熱」は増すばかり。
私は勢い余って「上海支社」を設立した。
本当に勢いが余り過ぎている。
しかし、これを書いている「今」でも、それを行き過ぎているとは感じない。
むしろ「もっと濃口」でやれと思う。
だってブルーオーシャンは、ともするとレッドオーシャンにだって変わることがあるからだ。
見切り発車もそのための手法だし、いつもそうしてきた。
参考記事はこちら↓
「上海の朝に成功を祈る的な1枚」 by myself
中国大陸へはデザインの仕事で何度も出かけた。
その時感じた「脅威」は、コストが安い生産拠点としての中国ではなく、マーケットとしての中国だったのだ。
「この勢いが止まらないうちに中国市場に食い込みたい」
そう気持ちが高ぶっていた。
「臆する」なんて言葉は私の辞書に載っていない。
昔からナンパの時も「切り込み隊長」だ。
上海の有名サロンに片っ端から営業した。
中国からの営業は「凄く強い」のは想像がつくだろう。
しかし、営業される側となった中国は、意外と「引け腰」でいつもがっかりする。
しかし、今回はそのうちの8店舗が「ダイヤモンドネイル」の導入を検討するということで、急遽プロダクツセミナーとマイスターのレクチャーに出かけることになった。
決まるとなると「早い」のも中国。
さぁ来い、今来い、じゃあ明日は?
となる。
まずは初日。上海だけでなく北京にも展開している「I-NAIL」。
このグループ企業はネイルだけでなく、ヘア・エステ・スパと総合的に展開していた。
元モデルの社長らしく、自社のイメージ広告での露出が多い。
というかほとんどのモデルは彼女だった。
私も白馬にまたがってプロモーションしたいぞ。
絶対カッコイイに違いない。
インターナショナルな上海とは言え、当然「中国語」を喋る人間が必要だった。
エデュケーターになったばかりのMs. Kimを采配するのは不安が残ったが、背に腹は変えられない。
技術は本社の日向(ひなた)に、スピーカーはMs.Kimに委ねることにしたのだ。
Ms. Kimも、上海は初めてだと言う。
彼女の気合も相当なものだった。
ネイル技術の通訳は難しい。
英語圏からの用語が多く、中国語への通訳はベテランでも断られるケースがある。
時間が掛けられる翻訳でも難しいのだから、同時通訳なんて、もう「神の領域」だ。
Ms. Kimは「中国系マレーシア人」なので、母国語は中国語。
その講義から溢れ出すエネルギーには驚いた。凄い迫力なのだ。
1caratの一言一句が中国語に置き換えられることに感動したこと。
それはそれは、今でも鮮明に覚えている。
私も自ら「マーケティング理論」をぶちかました。
面白かったのは、私が期待する答えにほとんどの参加者が賛同したことだった。
上海の現場で働く人達に、私の論理が通じた。
これは大きな自信にはなったが、その理論どおりに「実行するしない」は、また別の問題だった。
中心部にあるデパートにテナントで入っているサロンと、閑静な住宅街にあるサロン2店舗を見学したが、ソークオフジェル以外、日本との違いは見られなかった。
この建物が、講義を行った「I-NAIL」の本社だ。さすが白馬にまたがる社長だけあって、外観もヨーロッパ調だ。中には様々な教室があり、教育にもかなり力をいれていた。
そしてリッツカールトンにある「FIORI」でのマイスターレクチャーへ。
ヘビースケジュールだったが、Ms.Kimの滞在期間も限られていたので馬車馬のように動きまくった。
FIORIの2店舗目はデパート内にあるサロン。
アジアはいつだって「突然」何かが起こる。
「取材」と称してダイヤモンドネイルの実体験を希望したのだ。
えー聞いてないぜ。
3ヶ月後に発売される「Oggi CHINA」に掲載したいらしく、美容ライターの方に施術した。
こういうところは日本の風習とはやはり違う。
今日は今日の風が吹くし、明日の予定は明日決まったりする。
目覚しい発展を遂げる中国。
当時はまだ「市場」としての中国に気づき始めたばかりだった。
特に上海は世界中から注目されていたし、今後の展開が本当に楽しみだった。
本当に、楽しみだったのに・・・。
しかし私の心は『今、アジアへ !! 』と募るばかり。
最終目的地「USA」への本格進出まで、1caratと私の挑戦は
まだまだ続くのだ。
<ダイヤモンドネイル創世記 -8- へ つづく>
それじゃあ、また。