ブルーオーシャンでしか泳げない

日本とアジアで展開中のブランド「1carat」のCEO。 創業25年のデザイン会社主宰。撮る・歌う・弾く。

ダイヤモンドネイル創世記 -1-

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申し遅れたが、私はデザイン会社の他に「ネイルサロン」も経営している。

デザイン会社と並行して2003年に始めた「ダイヤモンドネイル」のためのサロンだ。

" ダイヤモンドネイル " とは、いわゆる「ネイル」に本物のダイヤモンドをアートする画期的な技術とサービスのこと。

 

「この小さなダイヤの良い使い道ないかねぇ、望月さん。

これ、小さすぎるからジュエリーにも使いづらくてね。」

 

代官山のジュエリー会社からデザインの依頼を受けた際に、1/300 ( 0.003ct ) カラットの微小ダイヤの " 新しい使い方 " の相談を受けたことがきっかけだった。

 

「これがそのダイヤだよ」

まるで " 砂のように小さなダイヤモンド "

サラサラと、小さなスコップから煌めきながらこぼれた。

 

ダイヤモンドに興味はない。

だが、その美しさに見とれている自分に気付く。

 

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デビュー当時のカタログに掲載された0.003ct のダイヤモンド ( 1石 1,300円 税別 )

 

早速、帰宅して妻にこのことを相談した。

ネイルに使うのも良いんじゃない? ネイルはこれから流行ると思うよ。」

その時の私は女性のトレンドに詳しく無かったが、この一言には「イケける」と感じたのだ。

 

そのジュエリー会社に「渾身の提案書」を持参したのは、それから2週間後。

 

そこには、きちんとブランディングされた「ダイヤモンドを石のまま販売する路面店」や、「それを取り付けるサービス」としての展開、「ダイヤモンドが贅沢に " 鑑賞 " できるカフェの構想」などをイラスト付きで丁寧に描いた。

そのビジュアルに、5カ年の経営計画書や広告用のキャッチコピーまでを更に添付した。

 

「うわ。凄いなこれ。うちにはこんな壮大な事はとてもできないな・・・。

これさ、望月君、自分でやったら?」

 

実はこの企画書を練っている間、構想そのものに「夢」を感じていた。

でもこれはあくまでも「頼まれた」もの。

自分用にするわけにはいかないな、と思っていた矢先の「申し出」だった。

 

 

今でこそネイルサロンの乱立で過当競争にまでなっているが、その頃ネイルサロンと呼ばれるものはほとんど無かった。

ネイルアートは、女性が自分で行うものだったのだ。

 

一部の店舗で「マニュキュアを塗る」または「アクリル ( スカルプチュア ) を使って爪の長さを出す」サービスがあるにはあったのだが、一般的には知られていなかった。

 

仮に市場規模が大きくなっても「本物のダイヤモンド」を扱うことで「差別化」を図ることができる。

ダイヤモンド以上に " 価値のある石 " はないからだ。

ビジネス的にも大きいのはこのポイント。

 

これからの成長が見込める市場で「本物のダイヤモンド」を扱うことを導入期で認知されれば、仮に衰退期を迎えてもブランドとして生き残れる算段がつく。

こうも感じた。

 

まずネイルにするということは「ダイヤモンドを繰り返し使う」ということが条件になる。ラインストーンなどと同様の「消費材という扱い」は、ユーザーからしたら「とんでもない話」だ。

 

ということは・・・「ダイヤモンド」をクリーニング ( 洗浄 ) する必要がある。

「ダイヤモンドは永遠の輝き」というフレーズは嘘偽りにしたくない。

 

そして、この微小なダイヤモンドを入れる「ケース」。

販売するにしても、持ち運びするにしても「紛失しない」ようにするためにはケースが必要だ。

 

それからの半年間は「ダイヤモンドネイル」のデビューに向けて試行錯誤を繰り返したのだ。

 

<ダイヤモンドネイル創世記 -2- へ つづく> 
pants-gaku.hatenablog.com

 

それじゃあ、また。

 

有言実行のすすめ

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若かりし頃の夢は「歌手」になること。

音楽で生計を立てることだった。

 

ギターは小学4年の時から。

親戚の兄ちゃんから譲り受けたフォークギター(今はアコギっていいますねぇ)を改造して、自作のエレキでロックを弾くマセた子供だった。

 

その趣味は50を超えた今でも続けているので、結構本気で好きなのだ。

 

歌手を目指したと言っても、バンドのボーカルという位置づけ。

ジャンルは、ポップ〜ロックの間。

当時好きだったAOR(adult oriented rock) のテイストで米国西海岸系の爽やかなロックを演奏していた。

 

その頃、歌で世の中に貢献したいという気持ちが強かったので、

 

誰かがうまいこと発掘してくれて

良いレコード会社と契約

良いプロデューサーとディレクターが担当してくれて

ブレイクしないかな〜

 

などと漠然と思っていたのだ。

 

実はワーナー・ミュージックのレーベルのひとつ「wea」からデビューする話があった。

当時、槇原敬之さんの担当ディレクターが、我々の担当にもなってくれたのだ。

 

しかし、バブル崩壊と共に話が立ち消え立ちになってしまい、デビューの夢は「藻屑」と消えた。

その後も30まではデビューのための活動を頑張った続けたが、今は友達として音楽と付き合っている。

 

では、なぜ私はデビューに至らなかったのか?

今でも真剣にその時の事を考えることがあるのだ。

 

・こうしたいという気持ちを声に出して何度も発信しなかった

・失敗しても何度も立ち向かわなかった(継続しなかった)

・売り込みが他人任せだった もしくは 運任せだった

マーケティングが不足していた (どんな曲が世の中で必要かなど)

 

この中で最も重要なのは、

こうしたいという気持ちを声に出して発信しなかった」ことだと思う。

これに対しては、今でも強く「後悔」している。

 

何であの時、死にものぐるいでやらなかったんだろう・・・。

 

 

話は変わるが、人は意外に「他人」の事に関しては無頓着だ。 

家族が一昨日、いや昨日でもいい。

「どんな服を着ていたか」なんて、ほとんどの人は覚えてはいないだろう。

ましてや友達や同僚なら、覚えていなければならない理由がない。

 

では「夢や希望」ならどうだろう?

 

他人のことであれ「夢や希望」は不思議と脳裏に焼き付いている。

幼馴染や昔の同僚の「こうなりたい」は意外と「記憶」しているものだ。

ただし、それを伝えられた場合に限ってのことだ。

 

なので「良き友人」に自分の夢や希望を伝え続けることは、決して無駄なことではないと思う。

 

夢や希望を叶えるためには、「質の良い情報」が必要不可欠だ。

そして、それを得るのは「質の良い人」からでなければならない。

 

考えてみればあたり前のことだが、

上記の条件を首尾よく揃えるには、「有言実行」が効率が良い。

 

だからあの「デビューし損ねた日」から、常々そうしてきた。 

「発言」なくして「成就なし」ということを信じているからです。

 

それでは最後に、

デビューし損ねたという「そのサウンド」を是非お聞きください (笑)

 


Tip Top Voice song collection

 

Tip Top Voice are: 

望月道記 - Vocal & Acoustic Guitar
吉村"チャッチュ"秀一 - Bass & Chorus 
Keizi Arai - Electric Guitar & Chorus 
 
2nd album Support Musicians
佐藤 環 - Chorus
Masatoshi Nita - Guitars
長谷革ナオヤ - Drums / Percussion
 
Full Album「再び夢は風にのって」
0:00 /  01.  CANDLE
4:22 /  02.  BE-FREE
8:53 /  03.  FOR YOU
13:36 / 04. IS THIS LOVE?
18:30 / 05. LATELY
23:16 / 06. 週末
27:18 / 07. The Reason Why
33:00 / 08. 恋のクライシス
36:46 / 09. 3月の風景
41:22 / 10. 再び夢は風にのって 
 
2nd mini Album
45:21 /    11. BELIEVE
50:40 /    12. ひまわり
55:55 /    13. WANTED
1:00:31 / 14. あの頃に戻れない
1:04:29 / 15. 愛する君に
1:09:02 / 16. 太陽がいっぱい
 
 

それじゃあ、また。

 

ホッパーとアルジェント

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Courtesy of www.EdwardHopper.net

 

この絵画、 " Nighthawks " を初めて知ったのは、19の頃。

 

キース・ジャレット好きのジャズマニアだった親父が何故か持っていた、南佳孝の「SEVENTH AVENUE SOUTH」というアルバムジャケットに描かれていたのだ。

デビッド・サンボーンのサックスソロから始まる、このアルバムの内容も素晴らしく、今でもたまに聞く。

 

何故かこのジャケットに惹かれた。

 

深夜の静寂な空気。

背中を向ける紳士の孤独。

働く老人の倦怠。

ワケアリ風なカップルのひそひそと話す会話までもが聞こえてくるようだ。

その刹那を独特な描写で切り取っている。

 

しかし、なぜだろう。

何処かで見た光景に思えてならないのだ。

 

この絵が「エドワード・ホッパー / Edward Hopper (1882-1967) 」なる画家に描かれた物だと知ったのは、ひょんな事からその「どこかで見た光景」という謎が解けた時だった。

 

 

私は中学生の頃から " プログレッシヴロック " が好きだった。

通称プログレね (笑)。

 

イタリアの恐怖映画「サスペリア」のサウンドトラックを担当していた「ゴブリン」にいたく感動したのがきっかけで、中学生の分際で「イタリアンプログレッシヴロック」の門を叩いたのだ。

サスペリアは2作目 ( といっても1作目とは関連性がない内容 ) が1978年の秋に公開され、前作と同様「ゴブリン」が音楽を担当した。このサウンドトラックはスンバらしいので是非聴いていただきたい。

 


GOBLIN "PROFONDO ROSSO" (DEEP RED) on Italian tv

 

タイトルは「サスペリア2」 ( 原題 : Profondo Rosso )

監督ももちろん前作同様「ダリオ・アルジェント」。

その独特な描写に打ちのめされ、最も好きな映画監督になった。

 

実はあれからも何度も " このビデオ " を観た。
その時に「何か」に気づいたのだ。

 

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あれ・・・この Bar ・・・ あの " 絵 " に似てないか?

調べてみると、ダリオ・アルジェントも「ホッパー」が好きらしいということが判明したのだ。

この奇妙な偶然は、なんだかホッコリと嬉しい。

 

私もますますホッパーが好きになって、今でも気が向くと画集などを買っている。

 

  

2016年の11月。

40年近くもファンを続けていたイタリアの至宝「iPooh」の解散ライブを観にローマへ出かけた。

実は、この年の6月に続いて2回目 (笑)。

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ローマ・オリンピコで開催された解散詐欺疑惑のラストライブの模様  ( Mochie撮影 )。

 

最後だって言うから出かけたのに、エンディングロールで「また11月にやるよー」と。

これは立派な「解散詐欺」だ (笑)。

普通、旅行でローマって一生に1回とか2回じゃない?
それを1年で2回もローマに来ようとは・・・。

 

で、バス停でたまたま見た「ホッパー展」の広告。

あ、今、やってるのね。

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 しかし、ポスターの貼られ方がかなり雑 (笑)。いかにもイタリアっぽい。

 

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はい、行きました。 

で、ホッパーの絵の中にいる私 (笑) 。

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残念ながら "Nighthawks " の展示はなかったので、シカゴ美術館にいつか観に行こうと思う。

 

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あれ?

私、 何が言いたかったんでしたっけ?

 
それじゃあ、また。

 

 

あの日、中島美嘉は輝いていた

2018年2月19日の月曜日。

私にとっても記念すべきコンサートの模様が、いよいよテレビで放映される。

 

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中島美嘉

MIKA NAKASHIMA FULL COURSE TOUR 2017

 ~YOU WON'T LOSE~

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私の会社が手掛けた「ダイヤモンドマイクロフォン」がこのツアーで採用された。

日本最高峰のアーティストの舞台で、しかも彼女に一番近い「表現の入り口」で仕事をさせていただいたことを誇りに思う。

 

美嘉ちゃんに初めて会ったのは、2017年10月9日 月曜日。

都内の某スタジオに3種類のダイヤモンドマイクを持参した。

 

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初めて会った彼女は、普段着でも有名アーティストのオーラが輝いていた。

 

「こちらマイクの人。望月さんね。」

お、おい・・・そんな「お歳暮のハムの人」みたいな紹介ありかよー(笑)。

 

「あっ、バンマスのお友達ですね。中島美嘉です。」

イメージしていたよりも華奢で、親しみのある笑顔とフランクな会話で初対面の私にも丁寧に接してくれた。

 

高校の同級生であり、かつてのバンドメイトだった「 河野 伸 ( こうの しん ) 」から、彼女に直接伝えてもらったことがきっかけだった。

 

河野 伸は、今や説明するまでもない「超有名アレンジャー&キーボーディスト」。

美嘉ちゃんのデビュー時からバンマスとして彼女をサポートしているのだ。

彼がいなければ、この企画は絶対に実現しなかった。

 

「凄い ! こんな繊細な輝きは見たことがないです ! 」

美嘉ちゃんはスタジオでも凄く気に入ってくれた様子。

中国公演用のセットリストではあったが、リハーサルを全編通して間近で見せて頂いた。

心配していたサウンドチェックも、エンジニアの方の協力もあってスムースにいったのだ。

 

本ツアーは2017年11月2日 広島を皮切りにスタート。

当初は彼女のヒット曲「花束」をイメージしたマイクデザインを提案し、それが採用された。

 

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Diamond microphone Mika Nakashima 中島美嘉 version

 

2,599石、21.6カラットの「ハイジュエリー」にも勝るとも劣らないスペック。

 

 残念ながら、このマイクを使用した模様は収録されていないので、ステージ上でどんな輝きを放ったかは関係者のお話だけで想像するしかない。

 

「お客様はどう思ったんだろう。美嘉ちゃんは満足してくれてるのかな。」

各地で行われているコンサートの様子を想像しては、嬉しく思ったり、心配したり。

何しろ、自分が開発した世界唯一の " グリルが煌めくマイクロフォン " を、あの「中島美嘉」が使ってくれているのだ。

 

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ちょうどツアーが行われている間に、更に輝きを加えたいという気持ちで開発を進めていた「素のグリル」が工場から仕上がってきた。

「ダイヤ」を更に輝かせるには、石のついていない状態のグリルにツヤ感を与えることだと考えたのだ。

 

「12月29日の最終日に映像シューティングがあるよ」

ステージ担当の方がこっそり教えてくれた。マイクを気にかけてくれていたのだ。

 

DVD化などはまだ決定していないようだが、映像に残るのであれば「ベスト」な物を提供したい。早速、技術者と相談し、何とか最終日に間に合うように「新しいモデル」を作ることになった。

 

時間はあまり無かった。

それでも技術者は頑張ったのだ。そしてそれは満を持して「完成」した。

 

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中島美嘉のトレードマークである「 Lotus ( 蓮の花 ) 」をモチーフに、完全なるオリジナルデザインのダイヤモンドマイクロフォンにしたかった。

 

ベースにツヤというアイデアは的中した。隙間を活かしてもフィニッシュが美しい。

石の輝きも従来のバージョンの比ではなかったのだ。

 

そのデザインのお陰もあって、石の数も1,841石 ( 10.26 ct ) となった。

当然ながら、販売価格も従来品より35%程度も抑えることができたのだ。

 

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12月22日の金曜日、日本青年館に出かけた。

最終公演の前に都内でチェックできる最後のチャンスだと、河野がアシストしてくれたのだ。

 

久しぶりの青年館は、オリンピックの施設建設によっていつの間にか移転していた。

その場所は、奇遇にも河野と私の母校「國學院高校」の隣であった。

 

「美嘉ちゃん、これ最終日用に作ったんです。蓮の花をモチーフにしたんですよ。」

彼女は今までのマイクも気に入ってくれていたことや、マイクを床に落としてしまったこと、歯にぶつけてしまったことなどを話してくれた。

 

「望月さん、これ今日から使っちゃいます。」

エンジニアの方が私に駆け寄り、こう話したのだ。

美嘉ちゃんからも「使いたい旨」を伝えてくれたのかもしれない。

 

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そしていよいよ12月29日金曜日、日本でのツアーファイナルを迎えた。

オーチャードホールは久しぶりだ。

 

「マイク、いい感じですよ」

エンジニアの方が、サウンドチェックに来た私を見つけるなり声をかけてくれた。

 

このツアーに携わる人達は、実はこの日が最後ではない。
2018年の正月明けから、中国・深センと上海の2公演が残されているのだ。

 

2017年10月の杭州公演の時も、是非このマイクを連れて行って欲しかったが「セキュリティが怖い」という理由で、残念ながら中国デビューは実現しなかった。

 

「私、マイクのボディガードで中国行きますので、コイツをあちらでも使ってもらえませんか?」

 

もちろん自腹で行くつもり。

 

エンジニアの方は笑いながらこう言ってくれた。

「僕が管理しますから。コイツ連れていきましょう。」

 

美嘉ちゃんのスタッフの方々はみんな優しい。

メンバーも一流だし、現場はいつも和やかだ。

これも彼女の人柄がなせる業だろう。

 

リハーサルが終わり、最後に観客のいない「会場」を隈なく見て回った。

外にはすでに列をなしているファンの方々がガラス越しに見える。

入口付近では会場スタッフの方々が、忙 (せわ ) しく準備を進めている。

 

特に何がしたかったわけではない。

自分がこのツアーの「ピース」のひとつだと実感したかったのだ。

 

もう「ただのハムの人マイクの人」ではない。

自分でそう思いたかったのかもしれない。

 

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チケットは、一般の方達と同じ方法で買っていた。

「2階」の最前列が運良くとれたのだ。

ただ、自分は既に会場の中にいるわけで、そのチケットを使うことは最後まで無かったが。

 

後から来た妻と技術者と3名で、自分たちのした「仕事」をどうしても現場で見たかった。

芸能人の姿も同じ列に見かけ、事の大きさも噛み締めた。

 

 

程なくして、オープニングに相応しい「GLAMOROUS SKY」のイントロが流れる。

そして幕は開いた。

 

10月から何度も何度もリハーサルを見ていたから、内容は隅々まで知っている。

しかし「本番」は何か特別な空気で包まれていた。

とても言葉では表現できないエネルギーで満ち溢れた世界だ。

 

「 俺の2017年もこれで終わる 」

このツアーを支えていた全員の " 一生懸命 " を陰ながら見てきたから。

俺たちも " 一生懸命 " 頑張ったから。

 

メンバー全員にライトが当たった瞬間、涙が溢れてきた。

 


【公式】中島美嘉 FULL COURSE TOUR 2017

otn.fujitv.co.jp

 

有料チャンネルではありますが、是非「フジTV NEXT」でご覧頂ければ幸いです。

 

それじゃあ、また。

 

独占という名のブルーオーシャン

 

 この過去記事からの続きです。

pants-gaku.hatenablog.com

 

そのビッグニュースとは・・・。

 

ドラマーなら誰でも知っている【 テリー・ボジオ ( Terry Bozzio ) 】。

彼がDWの専属契約アーティスト ( 業界用語ではエンドーサーという ) になったのだ。

 

そのドラム業界的BIGニュースは、本当に突然舞い込んできた。

 

「社長、千載一遇のチャンスです!カラー広告打ちましょう!」

この機会を逸す理由はない。

 

雑誌の広告コスト、しかも「カラーで全面」は決して安いものではないが、

" テリー・ボジオで広告を打つこと = 爆発的な売上をあげられる "

このことを約束されたようなものだ。

 

その頃も、雑誌広告は出すには出していた。

しかしそれは「モノクロ」で、売上を予測しながらページを占める面積を決めるという極めて現実的なもの。それはそれで必要だと思うし、理にもかなっている。

ただ、今回に関してはまったく事情が違うのだ。

 

経営者というものは「お金」を使うことを躊躇する。

この時はまったく理解出来なかったが、今はその時の社長の「葛藤」がわかる。

 

「売上は、口座に入金されて初めて信じられる」からだ。

 

しかし私は、この千載一遇のチャンスをどうしても活かしたかったのだ。

もし売上が広告コストを凌駕できなかった暁には「自分が責任を持つ」という " デカイ口 " を叩いて、社長の首を何とか縦に振らせた。

あの時の社長の顔は今でも忘れられない (笑)。

 

 

ここでのブルーオーシャン・ポイントは・・・

 

◎ DWと販売独占契約 ( エクスクルーシブ契約 ) を結んでいたこと

受注生産品は、商品がそれほど出回らないため並行輸入がしづらい。

よって、このブランドの国内ビジネスに限っては独占的だ。

 

これを " ブルーオーシャン戦略 " と大きい声で言えるかどうかは微妙だが、そのブランドの人気が集中すれば、間違いなく市場を独占出来る「仕組み」は持っていると言える。

 

ただ・・ここだけの話・・・「爆発的に売れる」とは言い切れない本音も実はあった。

だって売ってみないとわからないでしょ(笑)。

 

さぁ、結果を出さないとね。今度は私が格闘する番だ。

ボジオの宣材写真と共に「超限定入荷だぜ。この機会を逃したら半年は入荷しないぜ。」と、全国の販売店にアナウンスしまくった。

 

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DW EDGE® Snare drum  copyright Drum workshop
実際のテリー・ボジオモデルは、ブラックサテンオイルフィニッシュ。


当時の実勢価格で20万円もする「スネアドラム」は、入荷予定数を遥かに超える注文を受けた。

カラー広告の威力もまざまざと知った。

雑誌の発売日に電話が鳴り止まなかったのだ。

私の「ドヤ顔」は、社長をはじめ、同僚たちにも相当ムカつく感じに映っただろう(笑)。

 

そして私の「退職願」は、無事ゴミ箱へと葬り去られたのだった。

 

それじゃあ、また。

 

80年代に経験したブルーオーシャン

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別に人と違ったことを、闇雲にやろうとしていたわけではない。

ただ、人と同じことをすることに抵抗があったのだ。

 

そもそも「ブルーオーシャン戦略」は、フランスの大学院教授によって2005年に発表されたビジネス戦略だ。自分の起業時には知る術 ( すべ ) もない。

 

ちなみに、「ブルーオーシャン」に対して「レッドオーシャン」といわれる市場がある。

 
既にマーケット ( 市場 ) が、価格競争などで激戦となっている市場のことを指すのだが、私が若い頃に青春を費やした「ドラム ( 楽器 )」の市場はこれに属する。

 
コモディティ化と呼ばれる、商品同士の差別化が失われて供給過多になる事態を避けるために、エンドーサーと呼ばれる有名アーティストに名前を借り、アーティストモデルなるものを捻出し差別化を訴えたり、限定生産品を作ることで些か無理のある焦燥感を感じさせようとしたり、それはあまりにも音楽的とは言い難い " 業界 " だった。

 
価格競争などは言わずもがな。

カメラ量販店の模倣で「2割・3割当たり前!」を大手楽器量販店が率先して行ったことで、客が店に入るなり「これ何割引き?」なんて挨拶のように聞かれることが常識化していたのだ。

 
しかもユーザーの生きた声を吸い上げることの出来る店舗が、人件費の削減を目的とした「スーパーマーケット化」を目指していたことで、楽器業界はもはや終焉を迎えていた。

 
これでは店舗に出かける意味さえなくなってしまう。

自ら率先して「コモディティ化」を目指しているようなものだ。

 

しかし幸いな事に私の在籍した会社は、まったく真逆の方向に帆を張っていたのだ。

「ビンテージ楽器の販売」

「メンテナンスとカスタマイズ」

「アメリカの新しいブランドの開拓」

という当時のメーカー・楽器店が見向きもしていなかったビジネス。

 

とりわけ「ビンテージ」の世界は、完全なブルーオーシャンだった。

1950年代から70年代の古いドラムを、ただアメリカから取り寄せて売るだけでは成立しないこのビジネス。

それを見つけることすら困難だし、仮に良質だったとしても「メンテナンス」が必要不可欠なのだ。

古く貴重な情報を顧客に伝えることも「付加価値」となって、日本中のビンテージマニアが大勢押しかけた。

 

ちなみに私のセクションは「アメリカの新しいブランドの開拓」とそのR&D ( リサーチ&デベロップメント )、そしてMD ( マーチャンダイジング ) だった。

簡単に言うと、日本市場での販売促進・企画を行い、商品の適正在庫などを考えることが仕事。

 

今や超有名ブランドとなった、DW ( Drum Workshop ) というカリフォルニアに拠点を置く、メーカーの担当だったのだ。

DWは今でこそ低価格帯の量産品もあるが、当時は受注生産のみ。国産品と比べ4〜5倍の高価格帯で、ドラムの中では非常識ともいえる高額なブランドだった。

 

もちろん、こんな高額なドラムを売ることは未だかつて経験がない。売りに来られた販売店の担当だって困るだろう。

それは毎日が苦悩の連続だった。

そんなある日、ビッグニュースが舞い込んできたのだ。

 

この続きは【独占という名のブルーオーシャン】でお楽しみください。 

 

それじゃあ、また。

 

 

 

ブルーオーシャンに飛び込んだ日

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2000年にデザインしたパラオ政府観光局のためのパンフレット



1999年、起業に至った「きっかけ」は、"自分のやりたいこと" ができる会社がなかったから。

カッコよく言うと、そんな感じ。

ノストラダムスが1999年7月に「世界は滅亡する」と言ったから焦っていたわけではない。

 

「会社辞めてきちゃった」

 

そう妻に話した。

明日の保障など何もないのに、だ。

 

ただ、会社を辞めてでもやりたかったことがあった。

それは、日本市場に進出している、もしくはこれから日本に来るアジア、主に台湾の会社にデザインとプロデュースを採用してもらうことだった。

台湾の企業と仕事をすれば、更にその先のアジアに行くことも出来ると確信していた。

 

当時、日本に進出していた台湾企業のパッケージや印刷物は、原産国に適切な日本語フォント(書体) が無かっただけでなく、失礼ながら「はい、安かろう悪かろうの商品だよー」感が満載。

体裁を気にする日本のマーケットで販売するには少々厳しい。

そこに自分のサービスを提供すれば、せっかくの進出に活路を見出す手助けができると、そう考えたのだ。

 

そのビジネスアイデアは、楽器メーカーで13年、アメリカとの仕事を経験したことで英語でのコミュニケーションに自信があった私の、「最初のブルーオーシャン」だった。

 

妻の「面白そうだから会社つくっちゃえば」の一言で、こともあろうに " 株式会社 " を設立した。

 

なぜ株式会社にしたかって?

真面目に答えると、取引先候補のひとつが「法人」であることを条件に、取引に応じると言ったのが大きな理由。

当時は「有限会社」という選択肢もあったのだが  "どうせなら " という意味の分からない理由で株式会社にしようと考えたため、自分で自分の首を絞めるようなことにもなった。

 

何せ、現金で最低1000万円なければ「株式会社」を設立することができなかった時代。しかも、6ヶ月間も口座に留保したままにしなければならないというルールがあったので、別に運転資金も用意しなければならなかったのだ。

今考えても " 無謀 " だ。

 

昨日まで、普通に会社に行っていた「普通の勤め人」だった私が出来ることといえば、「どうしたらお客様が喜んでくれるか」考えることだけ。

 

 

1999年 (平成11年 ) 8月5日、設立日はこの日とした。 

一体、この先自分の人生がどうなるのかなんて、想像もしていなかった。

ただ、全身全霊ひとつひとつの仕事に愛を。お客様に成功を。

これだけしか考えていなかった。

 

 

では、一体どこがブルーオーシャンだったのか・・・

 

◎ コミュニケーションは英語

これだけでもライバルは減る。

台湾とは言え、日本語が堪能なクライアントばかりではないので「英語OK」は、先方の安心材料となったようだ。

勤めていた会社が私の新規事業のアイデアに対し、首を縦に振らなかったのもこれが理由だった。

「一体誰が英語を喋るんだ?」
・・・売上上げろって言ったの誰だよ。

 

◎ デザインと製造、デジタル化 ( WEB媒体利用など ) をワンストップで受注

お客様にとって、外注先を一元化することは充分な業務省力になる。

アナログとデジタルは当時、分野が分かれていたため一元化できる会社も少なかった。工場を持たないファブレスfabless ) 経営の基本は、製造のアウトソーシング化 ( outsourcing ) だ。

通常、データのみを提供するデザイン会社に工場はいらない。しかし、窓口となってすべての生産管理もサービスとして提案すれば、確実にお客様のためになる。

このような考え方をしているデザイン会社は、当時ほとんど無かった。
いや、わざわざ新しい事をしなくても仕事がまわっていたのだ。

他にも理由はある。
生産した製品 ( 印刷物やパッケージ ) に責任を負いたくないというのが理由だ。
リスク回避は、提携工場と契約時に取り決めれば問題ないのだが、その役割を担う人事的システムが無かったのだろうと推測する。

しかしながら、先方の業務省力を考えた提案は、当時充分にブルーオーシャンだった。とりわけ海外から参入したての企業には、メリットを感じていただけたはずだ。

 

◎ 一元化によるコストダウンの提案

すべてをお任せいただければ、当然利益率を下げることが可能。いわゆるボリュームディスカウントである。全体を受注することでコスト削減の提案をすることは容易となる。 

今となってはやはり古さは否めないが、当時はかなり先進的だったのだ。

 

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最初のクライアントはASUS だった。パッケージや印刷物など、ブランディングの一端を担わせて頂いた。 

 

では一体何のためにブルーオーシャンに飛び込むのだ?
もちろんそうしなければならない事情があるからだ。

 

それはまた次の機会に。

 

 

それじゃあ、また。